ジャ・ジャンクー『長江哀歌』

”善人の生涯に平安あれ”











あまりにも素晴らしい映画だった。ジャ・ジャンクー作品のなかでも最高だと思う。
舞台は三峡のほとり奉節(フォンジェ)。主人公と数人の役者を除いては、三峡ダム流域に住む人々を起用し、HDVカメラで撮影された。刻一刻と変化する街を前にして、「”今”撮らなければならない」と強く思った監督は実際にすぐ撮りはじめたという。

やがては沈みゆく街とそこに住む普通の人々の姿。ただただ眼前に現れるその姿に価値がある。それを眺めていれば、1993年に着工し2009年に完成する貯水池約660kmにも及ぶ三峡ダムの建設が人々に与えた影響を、映画を見る者は想像することができる。約140万人以上の強制移転、10元札にも描かれた景勝地としての風景の変化。

しかしジャ・ジャンクーは、この状況を告発するようないわば狭義の政治的な映画を撮らなかった。彼の眼は、人為的にもたらされたダム建設を”運命”のように受け入れ、逞しく生きる市井の人々に寄り添う。「烟(たばこ)、酒、茶、糖(あめ)」は、そんな普通の人々に楽しみをもたらす嗜好品であると同時に、交換/贈与によって関係を組織していく道具であり流儀である。そんなところにも”歴史の記憶”とでも言うべき普遍的な生の姿を見るような気がした。主人公が故郷の山西省へ発つことを決めた晩の夕食で、皆に無造作に配られるタバコ。炭鉱での稼ぎが日に200元だと聞いて、畑の収穫と解体作業が終われば行くよ、といい乾杯を交わすシーンは、ほんと大好きなシーンだ。


中国語原題は「三峡好人(三峡の善人)」。ブレヒトの「セツアンの善人」から採られたタイトルだという。英語題は「Still Life」。この映画でも他作品と同様に、携帯電話と流行歌が印象的な使われ方をしていた。やがて事故で死んでしまう若者がユーモアとともに得意げに主人公に聞かせた”着うた”は、こんな流行歌だった。

”浪は走り 流れ行く”
”絶え間なき 水流よ”
”世間のすべてを 淘汰していく”
”ひとつの潮流となり 滔々と流れる”

随所にちりばめられたユーモアの感覚もすごい好き。ちなみに”善人の生涯に平安あれ”は、主人公が設定している”着メロ”のタイトルである。あと蛇足だけど、小津安二郎が標準レンズの人だったなら、ホウ・シャオシェンジャ・ジャンクーは広角レンズの人なんだと思った。

長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]

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