のっちの歌声(1)

BEEカメの映像を見ていると、ほんとうに色々な音が聴こえてくる。誰かがカメラの前で話をしているときも、部屋の外側からは、誰かの話し声や笑い声、足音、食器を洗う音や洗濯機が回る音が聴こえてくる。そういうもの全部が「雑音」となって「寮内」に響いている。
いやもっとちゃんと言うと、「雑音」の全体が逆に「寮内」の存在を確信させる。「寮内」において響いているのではなくて、響いているから「寮内」がわかるというような感触。「雑音」と「寮内」がほとんど同じであるような感触。そんなふうに「雑音」に耳を傾けていると、たとえ間取りを知らなくても、部屋が地下にある(少なくとも居住空間よりは下の階にある)ということもわかるし、同時にカメラの部屋だけがそういった「雑音」から隔離されて静かに存在している、という感触もおそらくもつだろう。


・・・と偉そうに書いてしまったけど(/д\*)↓↓、言葉にするからまどろっこしいだけで、映像を見る人はこうしたことを全部ちゃんと「わかって」見ていると思う。目は閉じればとりあえず見えなくなるけど、耳はどうしたって聴こえてしまう。だから「わかる」。ただ、ここで僕が言いたいのは、音は確かに聴こえてしまうのだけど、もう一度そこから「雑音」に耳を傾けようとすれば、僕らは(誰でも)もっと色々な音を聴くことができるし、僕らは(誰でも)それらの「音」や「声」の確かさに触れることができる、ということなんです。


さて、ようやくのっちの話。

2003年6月11日21:40〜

ここ最近の僕の「のっち期」の発端になった映像です(すみません、真面目な話は後でします)。のっちは「一人で過ごすことが得意v(`∀´v)」というだけあって、ひとりで過ごすことに天賦の才があるのは間違いありません。かしゆかあ〜ちゃんも一人でカメラに出るときは、カメラの向うの誰かに向けてコミュニケーションを取ろうとするのに、のっちだけは平然とカメラと共に「過ごして」しまっている。たとえばすごく仲の良い人と電話をしながら同じテレビを見ているときに、しばらく無言のままとか笑い声しかしなくても平気だったりするじゃないですか。あの感覚をいつも身に纏っているのがのっちなのかなぁって思った。だから平気で20分も30分も過ごせる。のっち好きです(# v。v)o


さて…この日ののっちは眠すぎてなのか、明らかにテンションがおかしくて、「なーんか、なーいっかなぁ〜♪」とか歌いながら「あっ、しつもん!きょうは何曜日?」とか言っている。それまではのっちかわいいなー自由だなーとか気軽に見てたんだけど、のっちが白い椅子の上でずりずり後ろに下がりながら、「イェー、水曜日ってことは明日木曜日で、そのつぎ金曜日がきてまた土曜日がきて・・・」と言い出したあたりから、映像が「過去」の感触をもってどんどん遠のいていった。


そしてのっちはこんなふうに歌いだす。

「さんでぇーまんでーちゅ〜ずでぇー♪うぇんずでーさ〜ずでぇ…さーずでぇふらいでさ〜たでぇい、さんでワンス・アゲン♪」

リアルタイムで見ているときと、随分とあとになってBEEカメの映像を見る体験の差は、おそらくこんなふうな場面にあって、現在の時間からのっちの「さんでぇーまんでーちゅ〜ずでぇー♪」の歌声を聴くとき、これを見る人は、このときののっちが身を置いている時間(まるで歌そのもののような時間)を「かつて」あったものとして感じるだろう。
「かつて」ということは、同時に「いまはもうない」ということでもある。僕はこの「かつて」の、しかもどうしようもない「確かさ」の感触の前で、ただ「途方もないなあ」って思ってるだけなんです。この映像があまりにも「ただそれだけ」すぎて、無理に言葉を費やそうと思っても、この「かつて」の感触のどうしようもない「確かさ」とか「ただそれだけ」さにはぜんぜん届かない。それでも言葉を繰り返したいと思わせるものがあって、というかそうすることがこの「確かさ」に触れた者としての義務であるような感じさえしているのですが・・・。


・・・この「確かさ」の感触って一体何なんでしょうね(。・囚・`)


そう、でもこんな途方もなさを感じるのは「時として」であって、いつもいつもそう感じているわけではないんです。それでも比較的そう感じることが多いのは、カメラの前にいた誰かが「バイばぁ〜い」と言って部屋から出て行ったあと、彼女たちの足音に耳を傾けるときで、その足音が階段を登り、またその先にある、雑音が響いている寮内に帰っていくのを聴くとき、どうしようもない遠さや、確かさと共に、かつて繰り返されてきた時間の厚みとか時間の総体のようなものを感じる。いまはもうない場所に、いまはもうない足音が帰っていくような感じなのですが(ちょっと怖い)、この話は長くなりそうなのでまた別の機会にします。


話を戻すと、僕はもっと単純にこの日の映像を見て、のっちの歌声が好きだなぁって思った。くせがなくて真っ直ぐで、高いところでちょっと細くなるような歌声。この日ののっちは、こんなふうな途方もない「遠さ」のなかにいるのに、のっちの歌声だけは、なんでこんなにも「いま」に響くんだろう。同じ歌を他の誰かが歌ったとしても、こんなふうにはならなかったんじゃないかってわりと自信ありげに思うんですよ。
たとえばのっちの歌声は、歌を再現することに向かうことはなくて、いつもその場で、そのときの現在に向けて一番に響くように投げ出されているように感じます。それは(僕がそうであるように)いつも現在に乗り遅れて生きているような感覚をふつうにもっている人には、絶対に出せない歌声です。のっちの歌声は、この日ののっちがそうであるように、あまりにも無防備で、だからこそ僕らは不意に呼びかけられてしまうようなことがあるんじゃないかなぁ。・・・とそんなふうに思いました。


もう一日、のっちの歌声に触れたい日があります。それはまた今度。