ほとんど覚えてないようなこと

昨日の晩ご飯に何を食べたかくらいなら、わりとすんなり思い出せる。2日前なら苦しいけどまだ大丈夫。3日前だとかなり怪しい。1週間となると、もはや他の記憶に頼らなければ「晩ご飯」単独では思い出せない。「一番思い出に残っていることは何ですか?」と聞かれたなら、「合唱祭」「ダンスコンテスト」のように何か起こってしまった出来事を答えるだろう。


その一方で、普通に学校へ行き、普通に授業を受けて帰ってきた日の、たとえば昼休みに、あなたは友だちとご飯を食べながら何を話しましたか?とか、次の教室へ移動するとき、たまたま並んで歩くことになった誰かとあなたはどんな話をしましたか?ともし聞かれたなら、私たちは何と答えるだろう。いや、何と答えたらよいのだろう。そんなふうにして思い出すことのできなかった時間に対して、私たちはどんな態度をとったらよいのだろうか。

2003年11月28日23:52〜

夜も遅い時間、のっち、かしゆかあ〜ちゃんの3人は、ライブカメラの映像を使って、スタジオで戯れている。カメラがある部屋とスタジオはスイッチャーで切り替えることができるようになっているらしく、うまく調整すればカメラの部屋とスタジオを半透明のレイヤーのように重ねることができる。
この日もそんなふうに調整していて、重なった映像だけを見ていると、あ〜ちゃんはホワイトボードの上に立って時計を支えていて、のっちは時計の中に入って23時55分の針の位置を真似ようとしていた。

ここで、かしゆかのピアノが始まる。


僕はこの日の彼女たちの時間を手放しに素晴らしいと思った。この日の映像は何度も見ているのだけど、その度にいつも愛しくて堪らない気分になる。


時計からは秒針の音は聴こえてこないのだけど、セットされたメトロノームの音がカチカチカチカチと鳴り続けるなかで、かしゆかのピアノに合わせて、あ〜ちゃんとのっちはとても楽しそうにピョコピョコ動いている。時にはかしゆかがピアノを間違えながら、あ〜ちゃんとのっちはバカみたいに笑いながら、ただ遊んでいる。ただそれだけ。ここでもまた「ただそれだけ」だ。


といってもこの日の「ただそれだけ」さは、この日の遊びの「他愛のなさ」と奇妙な仕方で重なっているように思う。「思い出そうとして思い出すこと」と「映像を見る」という体験のあいだを行ったりきたりするような、また、ズレているのにそのまま重なってしまっているような不思議な感覚。しかしそれは多い少ないの違いはあるけれど、BEEカメの映像を見るときにいつも感じていることでもある。

他愛のなさと時間の総体―”現に残ってしまっている”映像

何かを思い出そうとして思い出すようなとき、この日のような「他愛のなさ」は、具体的には思い出せないけれどかつて(おそらく)そんなふうに過ごしていたという記憶だけはあるような、その場限りの会話や遊びとして思い浮かぶ。
それはかつて繰り返され消えていってしまった会話や遊びが、個々の記憶を失い混ざり合って、ひとつの時間の全体として思い浮かぶような何かで、もし具体的に思い浮かんでしまったら、それは形をもった出来事となって、僕が感じている「他愛のなさ」の感じは消えてしまう。だとすれば、僕が感じている「他愛のなさ」は、むしろ「思い出せなかったこと」に対する言葉だと言えるのかもしれない。


その一方で、僕がこの日の映像を見ているときに感じていたのは、映像が現に”残ってしまっている”という感覚だった。たとえドキュメンタリーという目的をもって撮られた映画を見ていても、僕はこれほどまで”残ってしまっている”という感覚をもったことはなかった。もちろんどんな映像でも「それがかつて実際にあった」ということを、途方もない「確かさ」の感触をもって実感する可能性は開かれているだろう。でも多くの場合、目的や意味やシークエンス、あるいは「作品」に奉仕するような仕方で、映像が必然的に備えているはずの「かつて」の感触はそれが失くなったという記憶すら残さないまま、あらかじめ消え去っている。


僕が”残ってしまっている”と思ったのは、本来残っているはずがないようなこと、残っていてはいけないんじゃないかとさえ思えるような感覚だった。そしてその事実に、僕は全く不意をつかれたんですよ。これは何なんだろうって。


そう、だからこんなふうにして別々に考えてみると、映像が現に”残ってしまっている”と感じたことは、僕の勘違いだったって言えてしまうかもしれない。「他愛のなさ」を思い出すことで、繰り返され消えていった時間の”全体”を思い浮かべているのに、僕が見ているのはただひたすら”具体的”な映像であるより他はない。
それなら、単なる勘違いなら、僕はこの日の映像をかつての「具体的な遊び」の「具体的な記録」として見るように、自分を仕向けることができるだろうか。そして本当にただの記録として見ることができるようになるのだろうか。そんなことは到底無理だと思った。ここでひとつ言えることは、正しい/正しくないを言うことがいつも正しいわけではなくて、本当に好きだと思ったことについて何か言いたいときには、僕や誰かも、それぞれが本当に大切だと思っていることを書けばいいということだ。

非人称の存在と現在

前回の日記で触れた「さんでぇーまんでーちゅ〜ずでぇー♪」とのっちが歌う映像を見ているとき、僕はのっちのことを考えていた。( ̄□ ̄;)!!・・・いや確かにそうなのだけど、今回の2003年11月28日の映像を見ているときに頭に思い浮かべていたのは、のっちやかしゆかあ〜ちゃんのことというよりも、「2003年に中学3年生だった”ある”アイドルの女の子たち」というようなことだった。
これまでにもこんなふうにして中学3年生の時期を過ごしていった女の子たちがいたんだと、僕は思った。現に写って動いたり笑ったりしているのは、他でもないのっちやかしゆかあ〜ちゃんなのだけど、”同時に”彼女たちは、かつてこんなふうに中学3年生の時期を過ごし今はもういなくなってしまった女の子たちの全部でもあるのではないか、と思った。


たとえば世界一の長寿の人がいてその人が130歳くらいだとしてみる。そして、130年以上前に生まれた人間はいまは一人も残っておらず、現在の約66億人がそれ以降に生まれた人間たちだけで構成されていることを想像してみる。その一方で、その約66億人が誰一人として生まれていない時代が確かにあり、いまはもう生きていない人たちだけによって構成された世界が「かつて」あったのだと想像するようなとき、さっき唐突に書いた「こんなふうに中学3年生の時期を過ごし今はもういなくなってしまった女の子たちの全部」のような存在を、想像することはできないだろうか。*1


そんなふうにして僕は、これを見ている現在の僕も彼女たちがそうであるように、”この肉体をもった”僕から離れ、”ある”非人称の私になってこれを見ているのかもしれないと思う。そしてこれはとても不思議な感じなのだけど、非人称になることでこれを見ている私もまた、彼女たちがそうであるように、ある時期を過ごして消えていった多くの存在として、彼女たちの時間を彼女たちと共に、もう一度繰り返して過ごしているように思えた。


大袈裟かもしれないけど僕はこの日の映像を見ていて、人はもうずっと以前から生まれては死んでいくことを繰り返してきたという当り前のことを想像していました。想像というかそのことの「確かさ」に途方に暮れていました。何が起こっても案外自分だけは死なないんじゃないかという感覚をもって普段を生きてしまっているのは、おそらく僕だけじゃないと思います。少なくとも僕は言葉にしたことはなかったけどそう思っていました。
でも、そう思っている僕でも、生まれては死んでいくという繰り返される時間の中でやっぱり”ふつうに”死んでいく。それは「自分だけは死なない」という感覚ではなくて、「自分も他と同じように死んでしまう」ことを当り前だと思える感覚です。もちろんだからと言って生きていくことを「どうでもいい」なんて思わないけれど、ある意味で「どうでもいい」って思えるような安堵を感じたのも確かでした。そうして何かに対して申し訳ないと思う気持ちもありました。それはよくわからないままです。


この時、僕が思っていたことは、この日の彼女たちの「かつて」の時間が愛しくて堪らなかったように、生まれては死んでいくということを繰り返し消えていってしまった「かつて」の時間の全体が、「愛しい」ということだったのかもしれません。


2003年の11月28日、僕はのっちのことも、かしゆかのことも、あ〜ちゃんのことも全く知らなかった。何の関わりもなかった。それでも、この日の映像は、彼女たちが過ごした他でもない2003年11月28日の後に、その後の話のつづきに、僕は今いれるんだって思わせるんです。

*1:この日以外なら、2003年5月30日0時00分からのかよこタンの誕生日の映像を挙げる。カメラは誰もいない部屋のホワイトボードと時計を写していて、午前0時の直前、部屋の外から何人かの女の子たちの声で、「5、4、3・・・」とカウントダウンが始まる。「0!」となったとき大きな歓声があがって、「ハッピバースデェーとぅーゆー♪」の歌が聴こえてくる。