いいえ少しも、

  だから、紀子の偉大さは、『東京物語』の偉大さとぴったりと一致して切り離すことができない。小津は、そういう希有の人物を、希有の映画と共に創造した。
  お忙しいですか、ときかれて、いいえ少しも、といつも微笑して応えられる人間でいることは素晴らしい。やってみればわかるが、これは簡単なことではない。こういう人間だけが、生活のざわめきの真下で、在るものを愛しているのである。

前田英樹/『倫理という力』p.182