のっちの呼び声を聴いて走り出した(2)


前回のエントリで挙げた気象画像のアーカイブを眺めながら、それに近い感覚として思い浮かべていたものがありました。それは宮島達男の作品です。

それは変化し続ける
それはあらゆるものと関係を結ぶ
それは永遠に続く


上記は宮島達男の作品のタイトルなのだけど、この作品は、東京都現代美術館に常設展示されていて、いつも3時間くらい見て回ってへとへとになったあと、作品の前に置かれたベンチに座って、20,30分ひたすらぼんやりしてから帰ります。


一個一個の赤色LEDにはカウンターが表示され、「1」から「9」まで徐々に数字がカウントされ、「9」のつぎには一瞬、表示が消えます。*1そしてまた「1」からカウントが始まる。これがいくつも集まってひとつの作品になっているのだけど、面白いのは、カウンターの数字をカウントするスピードがそれぞれ一定ではないという点です。それぞれがそれぞれの速さでカウントされ、一瞬消える。一方はなかなか変わらず、一方は駆け足のように消えていく。そんな異なる周期でも、何かのタイミングで同じ数字をカウントすることもあるし、同時に消え、また同時に「1」から始まることもある。


これは解釈なんて大袈裟なものじゃなくて、これを見た人はだれでも思い浮かべることだと思うんですが、ひとつひとつのカウンターが、一人の人間が生まれては死んでいく様子を表しているように見えてくる。薄暗い中をベンチに座って、音もなく赤色LEDの明滅する光をぼんやり眺めていると、人間が生まれては死んでいく様子の全体を、時間的にも空間的にもどこかあり得ない地点から俯瞰して眺めているように思えてくる。このときの立ち位置(視点)が、高高度から俯瞰し地球を撮影し続ける気象衛星「ひまわり」と、その気象画像を一望に配置することができるデーターベースの存在と重って、ぼくは両者を「近い」という感覚をもって結びつけた。


この作品において大切なのは、「それは永遠に続く」をいわゆる「輪廻」の思想に結びつけて「生まれ変わる」ことだとわかったつもりになることではなく、カウンターが一瞬間消えたときにも、他の無数のカウンターは相変わらず時を刻み続けているということだ。「生まれ変わる」かどうかなんて知らないけれど、とりあえず他のカウンターは動き続けているように、一人の人間が死んだあとも、当り前のように「世界は続いている」。この、「世界は続いている」という感じ。
しかしこの「世界は続いている」感じは伝わるだろうか。これは頭で理解してもしょうがなくて(理解だけなら自明のことだ)、実感するしかない。逆にこう考えてみてもいい。「自分が生まれる以前から世界は続いていた」。たとえば、気象衛星「ひまわり1号」の運用が開始された1978年4月6日の地球(全球)の写真は、これ以後に生まれたぼくにとっては、ある種のリアリティを持っている。

世界に身を委ねる

この作品では、残念なことに「出来事」は起こらない。「それは変化し続ける」「それは永遠に続く」の部分はあっても、「それはあらゆるものと関係を結ぶ」の部分が「出来事」の射程までは届いていない。


一方で、前回のエントリで書いたビタミンドロップ発売日の夜のBEEカメの映像には、2004年9月8日という日付があり、BEE−HIVE寮という場所があった。この日のことを「出来事」とし、またそれを「ただ素晴らしい」と感じたのは「なぜ」だったのか。おそらく、気象画像とそれを撮影し保存する仕組み自体がもつリアリティを通して、またその日が記録的な台風だったという認識を通して、この日の映像に残っている台風の風の音そのものに、「世界は続いていく」ことの確かな感触を感じたからだろう。


ただ、ここでひとつ思うことは、「出来事」が析出するのはいつも事後的でしかないのか、ということだ。いや・・・・たとえそうであっても、問題は、ぼくらを動機づけているのは、そのような遡及的に確定されるしかない「出来事」なのかどうか、ということ。「出来事」との関係において、ぼくらはどんなふうに走れるのか、その走り方を問題にしている。


「世界は続いている」という感触をどうしようもなく得たとして、「でも私は死んでしまう→虚しい」とするか、「だから私は生きる→面白い」とするかは、どちらもあり得る反応だと思う。これを後者にもっていくためには(だってそっちのほうがいいでしょ)、その走り方にかかっている。そこにはある種の飛躍のようなもの、世界の側に身を委ねるような飛躍が必要なのかもしれないけど。

のっちの呼び声を聴いたあと


2005年2月26日のBEEカメには、のっち、かしゆかあ〜ちゃんの3人が登場する。学校のテストが終わった直後だったらしくテンションが高くて、『新・うたの大百科』のページをのっちが適当に繰り、かしゆかあ〜ちゃんが「ストップ!」と言って、開いたページに載ってる歌を歌っていた。*2


中田ヤスタカに先がけて、Perfume×鈴木亜美『Be Togather』をなぜか振りつきで熱唱したり、あ〜ちゃんaiko『花風』ではっちゃけてたり、かしゆかEvery Little Thing『fragile』をソロで熱唱したりしながら、1時間以上も歌っている。この日は他にもいろいろと楽しい日で、ひとりだけ半袖のかしゆかは、寒くてずっとのっちと腕を組んでいて(付き合ってるね)可愛かったり、あ〜ちゃんがのっちにチューしようとしたり(付き合ってるね)、カメラには写らないけど、のっち(最強)とあ〜ちゃんがにらめっこしたりして、楽しい時間が過ぎていく。


そんないろいろなことが終わって、あ〜ちゃんが部屋に帰り、のっちも続いて部屋を出ていく。そして誰もいなくなった部屋が数十秒写る。この日の映像を一度見たことがあるひとでも、もしかしたらこのあとの声を聴き逃しているかもしれない。残りの数十秒で聴こえてくるのっちの声。初めに声を聴くことが大事だから、何と言ったかは書かないでおく。


ぼくはこの声を聴いたあと、それかもう聴くと同時に走っていた。「ちょっと待って!!」と思った。「まだ間に合う」とも思った。「出来事」の一歩手前で閉じようとする扉の隙間目がけて、とにかく全速力で走り出した。自分の意志とは関係なく一瞬にして走り出す。その隙間の先がどんな未来かわからないまま走る。まだ「出来事」になる以前に、「出来事」に向けて走り出した。全速力で。こんな走り方をなんと言ったらいいんだろう。


これをどんなふうに説明したらいいのかわからないのだけど、少なくとも「世界が続いている」ことに対して、「だから面白い」と思える走り方をしたし、そしてそれはいま現在も同じだ。


このときののっちの声を、こんなに特権化しなくてもいいのかもしれない。
Perfumeを好きになるっていうことは、少なからずこんな事態を含んでいる。


もういいや。言い切って置こう。

*1:逆順だったかも。すみません。記憶が曖昧。

*2:実はセットリストをほぼ全部メモっている。オレきもい。